先日知人を通して、タウランガ在住のSさんという女性を紹介してもらった。
機会があってお茶をすることになった。初対面で緊張していた私を優しく包み込むような雰囲気をまとっていた彼女は、とても魅力的だった。ひとことふたこと話しただけで、好きだなあと思った。
これは、言葉を並べて理由付けできることではなく、直接会って目を見て、話して感じるものなので表現しにくい。
とにかく、まだ出会ってまもないSさんになみなみならぬ魅力を感じたのだ。
話を聴いていると、彼女には12歳になる娘さんがいるとのことだった。
私が、どんなお子さんなんですか?と何気なく質問してみた。
彼女は、さらっとこたえた。
とても素敵な子、良い子なの、と。
私は、きっとSさんの育て方、環境も素晴らしかったんですね。と伝えると、
彼女は、多分違うと思う。彼女がもともともって生まれた素質なんじゃないかなって思う、と言った。
この言葉以上に、多くのことを語ってもらう必要はなかった。
Sさんが娘さんを、ひとりの人として接し、リスペクトしていることが手に取るように分かったからだ。
日本では、風潮なのか、社会がそうさせるのか、自分の子どもを他人に語るときに、至らない子で、○○なところはよくないんですけど、などと一言二言はこどもの短所を言いがちな気がする。
それは、あえて謙遜していて、本心ではないけれどもそういっておけば、人間関係も円滑に回るということなのだろうか。
それでも、自分のこどもだから親が簡単に善し悪しを評価することが大前提になっている風潮、もしくは社会ってどうなんだろうと思う。
といっている私も、幼少期は家族皆から、どうしようもない子、などと言った問題児のような扱いを受けて来た(まあ私にもだいぶ原因はある)。
長かった反抗期時代には、親、兄弟喧嘩で、家族と対等に闘い、言われた分と同じだけ否定の言葉を投げていたこともある。
今は和解しているので問題はないが、もっと個として認めて、育てて欲しかったなあんて思ったりする。笑
おとなになり、子育て家庭をサポートしている仕事をしている今だから分かることがある。
家族だからといって、簡単に相手を否定していいことなんてないのだな、と。
たまに、こどもが親の所有物であるかのようにコントロールされてしまっている家庭を見てしまうと、個としての存在意義について深く考えてしまう。
わたしが、いつか母親になる日が来た時、このブログを読み返したいと思って今日のブログをかいてみた。
未来の自分へ向けてのメッセージのようなものだ。
こどもは、たまたま私たちの元を選んで生まれて来ただけで、親と似た個体ではないということ。
彼らには、私たちとは違う性格、人生、生き方があるんだということを忘れないように。
こどもが何かにチャレンジをするときは、後ろから背中をそっと押す。
困った時、立ち止まった時には、横にいてそっと手を差し伸べる。
こどもにもひとりの時間が大切だということを知ってもらいたいから、家族それぞれの時間も大切にする。
人は皆、完璧じゃなくても良いんだよってことは、良くも悪くもズボラで鈍感な私を見て、気づいてもらえたらいい。
前のめりになって、こどものずいぶん先を歩きすぎないように。
こどもが生きる道の選択肢を、いくつももっていて、提案、用意できる親でありたい。
まだ、親になっていない私が思う、いつかのこと。
おわり